こんにちは、一般社団法人U&I(ユーアンドアイ)です。
私たちは、相続や遺言、老後の暮らしに関するお悩みを幅広くサポートしております。

当法人のブログでは、制度や手続きの話題が中心になることが多いのですが、今回はやや趣向を変えて、当法人スタッフが最近読んだ本の感想をこちらのブログにてお届けいたします。

先日、19世紀ゴシックホラー小説として名高い『フランケンシュタイン』を読了いたしました。
今回はその『フランケンシュタイン』の内容の紹介をさせて頂きたい所存です。

まずはじめに、フランケンシュタインというと顔に縫い目のある知性なき野蛮な怪物を指すのが一般的な理解かと思われます。
しかし、それは後世の創作による後付けの影響であり原作小説の設定とかなり乖離しています。
フランケンシュタインというのは怪物を指すのではなく、その怪物を実験で生み出した博士の名前です。
また、怪物も知性が低く野蛮な存在だと一般的には認知されていますが、原作小説では優れた身体能力のほかに高い知性を有しており、なおかつその性格は繊細に描かれております。
原作でどれほどの知性を有しているかというと、人の会話を盗み聞きすることによって「神のような科学」である言語能力を自力習得しています。さらに、作中では森でたまたま拾った旅行鞄から3冊の本を発見し、その本の骨子を高水準で理解しています。
拾った本はゲーテの『若きウェルテルの悩み』、プルタルコスの『対比列伝』、ミルトンの『失楽園』であり相当なものばかりです。『若きウェルテルの悩み』ではウェルテルの気高さに感銘を受け、『対比列伝』では平和を愛する古代ローマの統治者に思いをはせ、『失楽園』ではアダムと自分の置かれた状況を対比させています。

ですから、知性なき野蛮な怪物というステレオタイプは後世の創作に依る所が大きく、実際には高い知能を有し、それなりに徳性を持った人造人間なんですね。
ですが、その怪物は醜悪な姿で生まれたので、あらゆる人々から迫害され、いつしか人間への復讐を企てるようになりました。復讐対象となったのは自身の生みの親であるヴィクター・フランケンシュタイン博士であり、報復のために博士の故郷であるスイスのジュネーブへと怪物は足を運びます。そこで、偶然にも怪物は博士の弟であるウィリアムと遭遇し、ウィリアムが博士の家族であることを知った怪物は怨嗟からウィリアムを殺害し、その罪を家政婦であるジュスティーヌになすり付けてしまいます。自身の弟を殺され、家政婦も無実の罪で絞首刑に処された博士もまた怪物と同様に憎しみを募らせ、やがて両者はアルプス山脈の谷間で出会います。

怪物は頭ごなしに博士へ危害を加えることなく、ひとまずは博士への弁明を試みます。

ああ、フランケンシュタイン、ほかの人間には優しいのに、なぜおれだけを踏みつけにするのだ。この身体はおまえの正義、いやおまえの慈愛を受けてしかるべきなのだ。忘れるな。おまえがおれをつくったのだ。おれはアダムなのだ。だが、このままではまるで何も悪いことをしていないのに、喜びを奪われた堕天使ではないか。あちこちに幸福が見えるのに、おれだけがそこからのけ者にされている。おれだって優しく善良だったのに、惨めな境遇のために悪魔となったのだ。どうかおれを幸せにしてくれ。そうすればもう一度善良になろう

(メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』光文社古典新訳文庫、184頁)

ここで怪物が求めているのは、自身を生み出した父である博士からの「慈愛」です。この世に生を受けたからには、その親から承認され愛されたいという願望を吐露しているわけですね。そうして、怪物は博士に自身の伴侶となる女性を創造するように要求します。
博士は怪物の言う通りに伴侶となる女性を創造しようとします。しかし、博士は新たな怪物の増加を恐れるあまり伴侶の作成を取りやめます。心理学でときたま引き合いに出されるフランケンシュタイン・コンプレックスという心理が働いていますね。

さて、博士は伴侶の作成を中止し、怪物を創造する際に使用した機材を海に沈めてしまいます。その様子を監視していた怪物は人間に絶望し、博士の友人や妻を殺害しながら逃走します。当然そのような凶行に及んだ怪物を見過ごすわけにいかず、博士は逃走する怪物を追跡し、やがて二人の逃亡劇は北極までに及ぶのでした。
北極まで怪物を追い詰めた博士ですが、ついに性根尽き果て倒れてしまいます。そこに偶然通りすがりの北極調査隊の船が通りがかり、博士の身柄は保護されるのでした。そうして、調査船船長のウォルトンに博士は事の顛末を述べ、その供述を聞き取ったウォルトンが姉であるマーガレットへの手紙として博士と怪物の物語を語っているのです。
だから、フランケンシュタインの物語は博士が聞き取った怪物の視点、博士の視点、博士の供述を聞き取ったウォルトンの視点という風に入れ子式の構造となっており、語り手が複数に及んでいるのですね。また、その語り手たちの話す内容も正確なものではありません。なぜなら、その語り手たちの内容には自己正当化や釈明の言葉が並んでおり、その語り口も情緒的で時に激しい描写が挟まれるからです。この信頼できない語り手たちの存在がフランケンシュタインの物語を複雑にさせている原因でもあり、面白いギミックとしても作用しているのです。

では、話を調査船に保護された博士に戻します。博士は調査船に保護されましたが、徐々に衰弱していきます。博士を保護した調査船も北極海の過酷さから調査を取りやめ、イングランドへの帰路へと向かうのでした。博士はここまでの経緯をすべてウォルトンに話し終えた安心からか、ついに息を引き取るのでした。息を引き取った博士の船室を後にし、ウォルトンは姉への手紙をしたためていました。
すると、手紙を書いているさなか、博士の遺骸のある船室から何かの音が聞こえてきます。博士の安置された船室にウォルトンが足を踏み入れると、そこには怪物が博士を見つめながら立っていたのでした。怪物は博士の死を嘆きながら、ウォルトンへ怒涛のような最期の熱弁を奮います。

お別れだ!おれは行く。おまえがおれの目に映る最後の人間となる。さらばだ、フランケンシュタイン!おまえがまだ生きていて、おれに対する復讐の気持ちを抱き続けていれば、おれが死ぬより、生きているほうが心は満たされたはずだ。だが現実はそうではなかった。おまえはおれを消して、二度と大きな災いをもたらさないことを望んだ。もしもおれの理解を超えたやり方で、おまえが今も考え感じることができるとしても、おれが今感じているよりもさらに大きな復讐を望むことはあるまい。おまえがいかにうちひしがれても、おれの苦しみがずっと上なのだ。悔恨の痛みがおれの傷をうずかせ、それは死ぬまでずっと続くのだからな。
(同、399頁)

こうして、怪物は船室の窓から飛び降り、海氷の上に乗ってウォルトンの前から姿を消すのでした。

怪物の最期の熱弁がそうであったように、全体的に登場人物のセリフは情緒的であり、個人の感情を吐露しています。そういった意味で、『フランケンシュタイン』の物語はロマン主義的な側面を有しているものだと考えられるのではないでしょうか。

全体的なストーリーの流れや登場人物のセリフから「承認」をめぐる物語であると感じました。また、その「承認」がなされずに博士と怪物の間にすれ違いが発生し続ける哀しい物語だとも解釈しましたが、皆さまはどうお考えでしょうか?
『フランケンシュタイン』は様々なジャンルに分類される小説で、そのストーリーも複雑な構成になっていることから、たびたび文芸批評の俎上にあがる作品でもあります。また、作中では無視されがちな女性の登場人物の献身的な姿や作者メアリーの母であるウルストンクラフトがフェミニストであったことなどからフェミニズム作品として捉える流れも出てきているようです。
昨年、2025年11月にはギレルモ・デル・トロ監督が『フランケンシュタイン』の映画を公開し、近年は非常に作品への注目度が高まってきております。

多様な解釈が出来る『フランケンシュタイン』の原作に触れ、言葉には言い表せない情感を感じつつページをめくってみませんか。